小説投稿について考えさせられる「シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン」


大塚英志さんの「シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン」を読了しました。
ビックリマンチョコはチョコでもシールでもなく大きな物語を売っていた。
そんな記載が気になって読み進めたら、社会と物語の関わりを論じる内容でムズカシイ。
承認欲求のための無償労働について、闇を感じさせられた。

「物語とは何か?」「物語は必要か?」
私はそういう疑問が湧いており、本書を手に取った。
なにやら学術的な本で、大学生が読む論文みたい。私は理系でも文系でもなくアート系の人間ですから、文章の小難しさに打ち震えながら読みました。
ですが、陰謀論、参加型の物語、無償労働、承認欲求など、現代社会と物語の繋がりをおぼろげながら把握できた。

承認欲求と無償労働については、「うううううぅ」と苦い気持ちになります。
私も小説サイトに投稿するのですが、報酬を得る機会はほとんどなく無償労働です。報酬となるものは「いいね」のようなスタンプ、もしくはコメントや講評。これは承認欲求を満たすために無償労働をしており、悪く言えばプラットフォーマーに搾取されているわけです。
考えてみるとすべてのSNS、TwitterもInstagramも投稿者がコンテンツを投稿するから賑わうのです。プラットフォーマーだけが儲かる仕組み。
まぁ、上手く振る舞えば稼げる人もいるでしょうけれど、氷山の一角です。
映える写真を投稿しようと懸命になるのは、なんなんだろうな。

これらを考えだすと、投稿する手が止まる。
無償労働の先に何かがあるのか?
この労力はもっと身近な人に向けたほうが良いのではないか?
有給の仕事をして、周りの人に喜ばれた方が幸せなのではないか?
などと、考えた。

マザー・テレサは言った。
「愛の反対は憎しみではなく無関心」
我々はインターネットの向こう側に関心を持ちすぎていて、身近な人に向ける関心がなくなっているのではないか?
これがどんどん進んでいくと、我々の身近なところには愛が消え失せて、なおのことインターネットに頼るようになる。
ああ怖い。

もっと身近なところに関心を向けてみよう、コロナ禍も大げさじゃなくなってきたので直接触れ合える人々と交流しよう、そう思いました。
「汝の隣人を愛せよ」
身近なところをよくよく観察して、それを物語に昇華していくようなスタンスをとれたら良いのかもしれない。私の周りには私のように文章を書く人はいませんからね。

もう一つ、ビックリマンについて。
ビックリマンはシールの裏側に断片的な文章があって、一つ一つでは意味がわからないのにつなぎ合わせると大きな物語が浮かび上がるようになってるらしい。サーガのように。
こういう記載を見て、なるほど、私が小説で書こうとした異世界譚も明確なつながりなど必要なかったんだなぁと思った。
バラバラでまとまりのない話を書いているうちに長編小説にならないかと目論んだけれどバラバラなままで駄作にしかならなかった。だから消したいと思っていたのですが、サーガを書いていたのなら、あれで良かったんだと思う。ラジクル物語という、無茶苦茶になったヤツなんですけどね。いつか整理整頓したいと思ってる。

そんな風な学びがありました。

無償労働は極力避けようと思う。ちゃんと市場に打って出て、評価されて、自分を磨く世界に生きようと思う。


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