私はなぜ小説家になれないのか?「人はなぜ物語を求めるのかby千野帽子」


千野帽子さんの「人はなぜ物語を求めるのか」を読了しました。
私の観測範囲では小説家のフォロワー数はとても少ない。
Webライターや漫画家と比べると歴然だ。
現代では小説家ってニーズがないのかな? と私は悩み、ものがたり論を探求するのです。

私は1年半ほど前から小説サイトに投稿し始めました。映画化という栄光を(運良く)手にしたものの、ぜんぜんまったく人気がない。お皿に残ったパセリみたいな寂しさです。「ああ、見向きもされてないや」と、そっと去っていく決意をしているところ。

でもちょっと待てと、私だけが見向きもされないのか? 小説家自体がダメなんじゃないか? 小説ってもはやニーズがないのか? などと考える。
「俺が悪いんじゃない、社会が悪いんだ」と原因を環境のせいにする作戦だ。
そうして、Twitterを観測してみると、書籍化を果たした小説家でさえ、フォロワー数はいまいち伸びていない。具体例を挙げるのは憚られるけど、そんな風に思う。

一応の結論としては、活字離れは相当厳しくて、一般消費者から見て小説家の価値が低下しているのは事実だ。

「小説は必要とされていないのか?」「物語は必要とされていないのか?」「俺の存在は必要とされていないのか?」などなどの疑問を解消したく、本書を手にとってみました。

「人はなぜ物語を求めるのか」、これは新書で、物語論の本。
全体を通しての主張は「人は物語る動物である」、そもそも人は物語を通して世界を理解している、ということらしい。
人のプロフィールも物語的だと覚えやすい、因果関係をくっつけたくなる、自分自身のキャラも物語として認識している。
事実の羅列よりストーリーの方が納得しやすい、という記載もあった。
人はさほど科学的にも論理的にも生きておらず、物語的に生きている。
そんな内容だ。

私は「なるほど」と思った。
そもそも周りには物語が溢れている(自覚がない場合も多いけど)。
この度のウクライナ侵攻も人から聞く話はいつも物語的だ。
だからこそ、私が新たな物語を生み出しても、人の波に消えるように見向きもされないってことかな?
それが現実で、物語論を理解しても私の現状は変わらないようだ。

小説家になるのは厳しい。
もう、諦めよう。
だけど、この1年半で試行錯誤したことを活かしたい。
そんなわけで、ストーリーテラーと自分を再定義することにした。

ものがたり論を使えば、人の記憶に残しやすく、商品が売りやすく、ちょっとしたツイートもドラマティックになりやすく、人に好かれやすくなる。
のではないか?
こういった動機でものがたり論を極めようと、思い立ったのです。

そうそう、私は昔からこういうタイプだった。
文章の技を磨くでもなく、現状のまま注目を浴びようとするのでもなく、深く掘り下げようとする。
相変わらず地味なヤツだ。

現代ではもはや、小説は小説だけで成立しない。メディアミックス、要するに映像化や漫画の原作としてのニーズを満たしていくしかない。
なんとなく、裏方の仕事になったみたいだ。

とにかく、物語は必要だ。だけど小説のニーズは低下している。だから私はストーリーテラーとして頑張ってみる。
そんな決意でございます。
小説を書くことが仕事にならなくても、書くことによって伸びる何かがあると証明したい。そして、伝えたい。
それが私のものがたり論だ。

最後になりましたが、私はパセリも残さず食べます。あの苦味は初恋の味です。
でもそれは別の話。


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